登録者:Ching of chings

23 「終わりの日」の内部構造.pdf

2010-02-08 23:31:47
アクセス数:60
タグ:
0

■説明

聖書 エホバの証人

リンク

このスライドの現在表示中のページへのリンク
ブログパーツ
google ガジェット

関連するスライド

お気に入り登録したユーザ


GoodJobしたユーザ


タグクラウド

■スライド内のテキスト

スライド1: 偽預言者戦争疫病地震苦しみの激痛の始まり[ 福音書/啓示6章 ]「終わりの日」の内部構造「終わり」に関する記述を分析すると、おもに3段階に分けられます。どの期間に、どの期間が含まれるかを示したのが下の図です。対処しにくい危機の時代[ テモテ Ⅱ3章 ]あざける者[ ペテロ Ⅱ3章 ]荒嫌者/不法の人終わり日のしるし大患難[ 福音書 ]3時半[ ダニエル書/啓示 ]エホバの日キリスト臨在終わり*「荒嫌者」=荒廃をもたらす嫌悪すべきもの第1段階は「前哨戦」とも言える。「産みの苦しみの始まり」の段階です。さて、何がこの前段階に含まれるかということですが、これを検証するために、マタイとルカの平行記述を並べて考慮しましょう。

スライド2: (ルカ 21: 8-11) 「惑わされないように気を付けなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがそれだ』とか,『その時が近づいた』とか言うからです。そのあとに付いて行ってはなりません。さらに,戦争や無秩序な事態について聞いても,恐れおののいてはなりません。これらはまず必ず起きる事だからです。しかし,終わりはすぐには来ないのです」。それからイエスはさらにこう言われた。「国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がるでしょう。そして,大きな地震があり,そこからここへと疫病や食糧不足があります。」(マタイ 24:4‐8) 「だれにも惑わされないように気を付けなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがキリストだ』と言って多くの者を惑わすからです。あなた方は戦争のこと,また戦争の知らせを聞きます。恐れおののかないようにしなさい。これらは必ず起きる事だからです。しかし終わりはまだなのです。 「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震があるからです。これらすべては苦しみの劇痛の始まりです。」(新世界訳で「苦しみの激痛」と訳している語は、[ὠδίνων ] で、通常「陣痛」と訳される語です。それで、新共同訳は「これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」と訳しています。初期の陣痛は軽いものですが、次第に激しくなることを示唆しています。ルカの方では「・・始まり」という表現はありませんが、「臨在の偽情報」や「戦争や無秩序」などは、[ まず ] 必ず起きることであると記しています。この [ まず ] のギリシャ語はπρῶτον[ プロトン ] で、その意味は「いちばん最初に , 真っ先 , 手始め , 誘い水 , 序の口 , 皮切り ,発端」などの意味を持つ語です。従って、「終わりの日」をしるし付ける、真っ先に生じる

スライド3: 出来事です。つまり、これらはそれまでの長い歴史の中で常に見られてきたものを述べているのではないことが分かります。従って、それに続く「国民は国民に・・地震、疫病、食糧不足」は、その前のこととは別の事ではなく、「戦争や無秩序な自体」を詳述したものであり、それらは苦しみの始まりに過ぎず、「終わりはすぐには来ない」ので、「私がそれだ」という偽情報に惑わされたり、恐れおののいて、冷静さを失ったりしないように(口を酸っぱくして)イエスは警告しておられるのです。ですから、世界戦争と思える出来事に先だって「時は近づいた」とか「わたしが油注がれた者(ギ語:キリスト)だ」と世界に向けて大々的に、宣言する「声」に用心しなければなりません。仮に1914年の起きた、「第1次世界大戦」がこのしるしの「国民が国民に向かう」戦争の成就だとしたら、1800年代の終わり頃、そのような実体があったとしたら、それは、聖書の表現から言えば、間違いなく「偽預言者」として、預言されていた正体であると言えます。そして、さらにこの第1段階の期間に含まれると思われるのが、つぎに上げる記述です。(テモテ第二 3:1‐5) 「終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。というのは,人々は自分を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる者,ごう慢な者,冒とくする者,親に不従順な者,感謝しない者,忠節でない者,自然の情愛を持たない者,容易に合意しない者,中傷する者,自制心のない者,粗暴な者,善良さを愛さない者,裏切る者,片意地な者,誇りのために思い上がる者,神を愛するより快楽を愛する者,敬虔な専心という形を取り

スライド4: ながらその力において実質のない者となるからです。こうした人々からは離れなさい」とりわけ5節にある「敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者」たちは、モーセに抵抗したヤンネとヤンブレと同類で、同じ運命をたどると述べています。(テモテ第二 3:8) 「ヤンネとヤンブレがモーセに抵抗したと同じように,これらの者も真理に抵抗しつづけます。これらは,思いの腐りきった者,信仰については非とされた人々です」ヤンネとヤンブレとは、、さまざまな不思議と奇蹟を行なったときに登場した、魔術師たちの事だと理解されています。モーセとアロンは、イスラエルの神がおられることをファラオに示すために、アロンの杖を蛇に変えます。ところが魔術師たちも、同じように杖を蛇に変えます。さらにモーセとアロンは、その杖を使って、今度はナイル川を血に変えます。ところが、この魔術師たちも同じことをして、神からの証しを打ち消して、モーセが語った神のことばを、無きものにしようとしたのです。  言い換えれば、彼らは、まがいものの業を行ない、代替物を作り上げることによって、真理に逆らったのです。同様のことが「終わりの日」にも見られると言うことです。彼らは、偽情報を宣伝し、宣伝し、宣伝し、「モーセのような預言者」であるキリストに対抗して、自分たちこそ、神からのものを示しうる唯一の経路であると主張し、その全権をゆだねられたものであると、はばかることなく宣言し続けるのです。しかし、テモテは、それらも決して、いつまでも続くものではないと述べています。

スライド5: (テモテ第二 3:9) 「とはいえ,彼らがそれ以上進むことはありません。彼らの狂気は,その二人の狂気の場合と同じように,すべての人に極めて明らかになるからです。」ですから、神の摂理によって、それらは淘汰され、そうした者たちの「まがい物」は一時は功を奏しますが、いずれ、全ての人に極めて明らかになることになっていると言うことです。その兆候はすでに徐々に見え始めているようです。さて、「終わり」に関する第2段階目ですが、それは、「苦しみの激痛」が佳境となる、本格的な「終わりの日」となります。一言で言えば「大患難時代」であり、「エホバの日」と表現されている時期です。それを引き起こすのは、「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」であり、ダニエル書の「小さい角」であり、啓示の「底知れぬ深みから上る野獣」であり、テサロニケの「不法の人」であり、エゼキエル書の「マゴグのゴグ」です。これは同一の者で、様々な呼び名をもっています。そして、「それらの患難の後」キリストの臨在のしるしが現れます。これが、終わりに関する記述の第3段階目であり、終わりの日の「終わり」です。この時に、初めて「選ばれた者を集める」事がなされる、つまり真のクリスチャンが明確になり、真のクリスチャン会衆が復興する時となります。それまでは、「大いなるバビロン」の滅びの直前でさえ、真の神の民は、選び出されては

スライド6: いません。その時ようやく「私の民」に対して「彼女から出なさい」という声が実際に上がる時点なのです。さて、「ハルマゲドン」についてですが、これまで、「最後の最後に」「地の王たち」が神に滅ぼされることを意味すると、一般的に理解されてきたかも知れませんが、しかし、「ハルマゲドン」は戦争、戦いであって、滅ぼされる事だけを指すわけではありません。地の王たちは、どのように神に戦いを挑むのか、天の神と地上の人間が、どのように戦争を行うのかというと、彼らは、地上にいる神を崇拝している者に対して、攻撃を仕掛ける事によって、神と戦おうとします。それはいつの時点かと言うと、サタンが、地に落とされてすぐ「彼女の胤のうちの残っている者たち,すなわち,神のおきてを守り行ない,イエスについての証しの業を持つ者たちと戦うために出て行った。」(啓示 12:17) 時からその戦いが始まります。そのためにサタンは、地上の代理者として、海から野獣を起こします。これは、ダニエル書で指摘されている、第 4 番目の獣の「小さい角」が出て来た後の獣に当たります。(ダニエル 7:25)「至上者に属する聖なる者たちを絶えず悩ます。そして彼は時と法とを変えようとし,彼らは一時と二時と半時の間その手に渡される。」ですから、最終的な地の王たちの裁き(滅び)は実際にはハルマゲドン終結後ということ

スライド7: になります。それは、ダニエルの上記の次の聖句から分かります。(ダニエル 7:26)「そののち法廷が座に着いて,その者の持つ支配権をついに取り去った。これを滅ぼし尽くし,全く滅ぼし去るためである。」地の王たちは、戦争終結後、裁判にかけられ、有罪、死刑執行となります。ちなみに、その時代まで存続している、前の 1 から 3 番目の獣であった領土にすむ者たちは、少しの間延命されます。つまり執行猶予つき判決が下ります。(ダニエル 7:11‐12) 「わたしはその時,その角の語る大仰な言葉の響きのゆえにずっと見ていた。わたしがずっと見ていると,ついにその獣は殺され,その体は滅ぼされて燃える火に渡された。また,残りの獣たちについては,その支配権は取り去られたが,一時また一時節のあいだ命を延ばすことが許された。」この、ダニエル書の法廷が開かれる記述に相当する、啓示の書の部分は、王の王イエス・キリストによって「有罪が言い渡され、死刑執行命令」とも言える次の記述に対応していると考えられます。(啓示 19:13‐15) 「そのとなえられる名は神の言葉である。…そして,彼の口からは鋭くて長い剣が突き出ている。それによって諸国民を討つためである。」

スライド8: 「いちじく」のたとえから預言の調べ方を検討する次に預言の「調べ方」そのものも、どこに注目し、どのように確かめるのが聖書の意図にかなっているのかを検討しましょう。そのためにまず3福音書の「いちじく」の例えを考慮します。(マタイ 24:32‐33) 「その若枝が柔らかくなり,それが葉を出すと,あなた方はすぐに,夏の近いことを知ります。 同じようにあなた方は,これらのすべてのことを見たなら彼が近づいて戸口にいることを知りなさい。」(マルコ 13:28‐29)「いちじくの木から例えを学びなさい。その若枝が柔らかくなって,その葉を出すと,あなた方はすぐに,夏の近いことを知ります。 同じようにあなた方は,これらのことが起きているのを見たら,彼が近づいて,戸口にいることを知りなさい」(ルカ 21:29‐31)「いちじくの木やほかのすべての木をよく見なさい。それらが既に芽ぐんでいれば,あなた方はそれを観察して,もう夏の近いことを自分で知ります。 このように,あなた方はまた,これらの事が起きているのを見たなら,神の王国の近いことを知りなさい」まず最初に一つの点を取り上げておきたいと思います。これは重要なことです。これらのことを「見たなら」と言われています。「起きたなら」ではありせん。ましてや「起きている」と教えてもらったならではありません。

スライド9: ルカは、あえてはっきりと「もう夏の近いことを [ 自分で ] 知ります。」と述べています。そうです。神の王国が近いかどうかは「自分で見る」べきであり「自分で知る事ができる」ということです。終わりを経験するのは、ともかく、その前兆を「自分で見た」人々です。自分の目で見るとは、例えばこういうことです。「あなたは第一次世界大戦を自分の目で見ましたか」私は1951年生まれですが、見たことはありません。歴史の事実として「知って」いますが、自分自身で見たわけではありません。「見たなら」というのは「知っている」ということと全く違います。確かに聖書中には「導いてくれ者」「教えてくれる人」がいなければ、自分で読んだだけでは十分ではない事もあります。しかし、それは、神の目的などの、いわゆる「神学的」な部分であり、おおよそ預言とその成就については、どれほど知識の深い専門家でさえ、まだ成就していないことに関しては、はっきりと説明することは難しいものですが、逆に、成就となると、誰でも、字を読めるなら小さな子供でさえ、この現実と聖書の記述とおりになったかどうか、自分で判断できると言えるほど明確なものです。ですから、預言をそしてその成就を見極める方法を正しく会得しておくべきです。その正しい方法とは「自分で調べる」と言うのがイエス・キリストの答えです。同じルカの記述の中に、そうしようとしない人々に対する、幾分いらだちを込められたと思える記述があります。(ルカ 12:54‐57)「イエスはさらに群衆にもこう言われた。「雲が西の方にわき起こるのを見ると,あなた方はすぐに,『あらしが来るぞ』と言い,そのとおりになります。また,南風が吹いているのを見ると,あなた方は,『熱波があるぞ』と言い,そのようになります。

スライド10: 偽善者たち,あなた方は地や空の様子の調べ方を知っているのに,この特別な時の調べ方を知らないのはどうしてですか。なぜあなた方は,何が義にかなっているかをも自分で判断しないのですか」さて「いちじく」をよく観察するように言われています。どんな所に注目すべきなんでしょうか。  ルカによれば「すでに芽ぐんでいれば」マタイとマルコは「若枝が柔らかくなり、葉を出すと」夏の近いことを知る。とあります。ルカは「ほかのすべての木」をも含めていますが、他は「いちじくの木」だけです。見るべきは、様々な種類のものでもなければ、その数でもありません。マタイは「これらすべてのことを」と書いていますが、ルカとマルコは単に「これらのことを見たなら」となっています。「すべて」、いうのは、今見える全部と言うことではなく、最初の方を見ただけで早急な判断をせず、最終的な部分までちゃんと見届けるようにという意味でしょう。いずれにせよ、記述から読み取れるのは、時間的経過の主に最終に近い要素だけ(葉を出す)に注目すべきというのが「たとえ」の目的です。「葉が出て」いなければ、他に何を見ようと、何が起きていようと夏はまだ遠い。ということです。ひとときに一つの山全部のいちじくが芽吹いた、若枝が柔らかくなったので、夏が近い証拠?  ではないということです。とにかく数本でも「葉が出初めている」のを見ればそれを自分で知るということです。肝心なのは量でもパターンでもありません。その順番であり、そして、最終的な状態の確認です。「荒嫌者」「迫害」「福音の証」「多くの偽預言」「大患難」「天変地異」。ここまでが、「人の

スライド11: 子のしるし」を見るまでのできごとと順番です。「葉が出る」のは大患難から天変地異あたりと言えるかもしれません。少なくともほとんど「始まりにすぎない」できごとだけで、夏が近い、つまり、終わりが近い証拠と見なすことはできないということです。ましてや、近いどころか、すでに「終わり」に入ったなどと考えるのは、完全に勘違いであることをこれらの聖句は示しているのです。「始まりに過ぎない」出来事とは、「世界戦争、地震、食糧不足、疫病」などです。さて、改めてもう一度、「これらのこと」に注目してみたいと思います。「これらのこと」に厳密に何が含まれるのでしょうか。何となくイメージとしては、幾つもありそうな感じがしますが、実際はたったの二つのことしか上げられていません。つまり「若枝が柔らかくなる」と「葉を出す」だけなのです。終わりのしるしとして語られた部分のどれが「若枝が柔らかくなる」の範疇に入り、何が「葉を出す」に含まれるのか、分かりません。前に引用したルカの記述の続く部分はこれです。(ルカ 21:32) 「あなた方に真実に言いますが,すべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません。」つまり、この例えの中の「これらのこと」を受けて、その例えの適用として言われた「これらの事が起きているのを見たなら,神の王国の近い」と語られ、「この世代が過ぎ去ら

スライド12: ない」と表現されているのです。この例えをもう少し、考えて見ますと、「若枝が柔らかくなる」前の段階が当然あります。ともかくその前に「若芽」が出なければなりません。それで、この例えは、いちじくのその年の生長の全部を含んでいるわけではなく、ほとんど後半部分、夏に近い部分に絞って述べられていることが分かります。ということは、「始まり過ぎない」事まで「これら」に含んではいないと考えられます。実際、この例えを話し始める直前に言われたのは、クリスチャンが様々な艱難に遭遇すること、荒廃をもたらす者の出現、天体に現れる恐ろしい光景などを連綿と語られた後で、「では,いちじくの木から例えとしてこの点を学びなさい。」と述べて前述の話を「この点」として付け加えられたたとえ話です。 こうした要素を全てを考慮すると、「これらすべて」の中に含まれるのは、始まりに過ぎないことの後で生じる本格的な出来事、つまり「エホバの日」と表現される部分に言及しておられたと結論することができます。