22 ダニエル書の「巨木の7つの時」が終末預言などではない根拠.pdf
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スライド1: ダニエル書の「巨木の7つの時」が終末預言などではない根拠1914 年王国樹立説の聖書中の記録とされているダニエル 4 章の「巨大な木」についての記述ですが、、必ずしも、多くの人の納得するものではないことを、ものみの塔自身認めています。「この幻はネブカドネザルだけに直接当てはまる預言だと考え,その幻には,『人間や想像上の神など,他のすべての力に勝る神の至上性』に関する不変の真理が提示されているにすぎないと見る人々もいます。そのような人々は,それが特定の期間や神の予定表と関係しているとは考えません。」-洞‐1 1186 ページ「・・・に過ぎないと見る人々もいます」と書かれていますが、色々調査してみると、聖書研究者、読者の圧倒的大多数の人々は、そう捉えているようです。ほとんど誰も「神の予定表と関係しているとは考えません」 なぜ考えないのでしょうか、そう考えるべき理由が何もないからという簡明な理由です。これに預言的意味があると捉えているのは、ものみの塔とごく限られた人々にすぎません。ほとんどエホバの証人の専売特許といって差し支えないでしょう。「しかし,ダニエル書全体を調べてみるなら,その中に含まれている幻や預言の至る所で,時間的な要素が非常に目立っていることが分かります。」-洞‐1 1186 ページ
スライド2: なぜ、このネブカドネザルの「巨大な木」についてさらに注意を向けるのでなく、他の所に目を移すのでしょうか。答えは簡単です。その預言そのものの中にはそれが預言的な要素を含むとか、神の予定表と関係しているとみなせる記述は皆無だからです。したがって、そのように考え得る根拠を他から探して来なければなりません。「(要約)ダニエル書全体を見ると、預言的な意味を持つもの、終わりの日に関わる預言が多くある」-洞‐1 1186 ページ「以上の点からすると,象徴的な「木」の幻と,その中の「七つの時」に関する記述が,バビロンの一支配者の経験した 7 年の狂気と,その後の回復や権力への復帰以外のことには適用されないと考えるのは理屈に合わないと思われます。」-洞‐1 1186 ページこれが王国誕生までの予定表であるということに間違いないという根拠は、単にネブカドネザルの 7 年間について書かれているに過ぎないと考えるのは理屈に合わないと「思われた」からです。これと言って明確な聖書的根拠は何もないので、理屈に合わないと「思う」かどうかにかかっているということです。そしてものみの塔の執筆者は、そう思ったのでした。それ以来、ほかのみんなもそう思うことにしたのでした。勿論思ってはいけない理由はどこにもありません。ともかく、「思われて」いらっしゃるのです。そして続く節にはこうあります。
スライド3: 「このすべては,その長い幻と解き明かしが,「諸国民の定められた時」の継続期間とキリストによる神の王国の設立の時とを明らかにしているからこそダニエル書に含められたと考えるべき強力な理由となります。」-洞‐1 1186 ページ「・・・と考える理由」とされているのは上記の理由です。ここでは少しニュアンスが強まって「考えるべき」と幾分強制的に、脅迫的は言い回しになっていますが、いずれにせよ、聖書にそう書かれているワケではなく、そのように「考え」たゆえに出て来た結論です。「そのように考えた場合、そのように考えられなくもない」という類のものです。当然それが的確かどうかは疑問が残りますという含みをもっています。「書かれていることを超えている」可能性は、0%から100%の間です。もちろん0%以外は「書かれていることを超えている」と言えます。なぜなら、聖書に何もかかれていないことを結論としているものだからです。そしてこれは、この出来事とルカ 21 章の「諸国民の定められた時」を関連づけて、というか、同一の期間として断定した上で、1914 年王国樹立説があるわけですが、この 2 つの聖句が関連していることを示唆している、あるいは暗示するような聖句は存在しません。「イエスは,ローマ人がエルサレムを壊滅させる西暦 70 年に同市に臨むはずの,そして現に臨んだ滅びについて説明されましたが,その際に言及しておられたのは明らかに文字通りのエルサレム市でした。エルサレムがバビロニア人によって踏みにじられ,王が流刑に処され,
スライド4: その地が荒廃した後,ダビデ王朝の者が地上のエルサレムから支配を行なうことは二度とありませんでした。しかし聖書は,ダビデの家系に生まれたメシアなるイエスが,天のシオンの山,天のエルサレムから支配を行なうことを示しています」-洞‐1 1184 ページ1914年臨在説の基盤となっている論拠とされているものを3つ挙げておきましょう。① ネブカドネザル王の 7 つの時は文字通りに成就した 7 年以外に、終わりの日までの、 つまりキリスト臨在までのはるかに長い年月を表している。② 木が切り倒された時と、その期間はルカ21章の「エルサレムを踏みにじることが許さ れる、諸国民の定められた期間」と同一である。③ エルサレムが踏みにじられることが開始されたのは、イスラエルがバビロン捕囚となっ た BC606 年である。「7 つの時」とは何かまず、①の 7 つの時についてですが、冒頭で少し触れましたがこれに付いて「知識」の書籍にはこう記されています。「すなわち七つの時は 2,520 日になるはずです。しかし,その短い期間の終わりには注目に値する出来事は何も起きていません。」-知 第 10 章 97 ページ 17 節「注目に値する出来事は何も起き」なかった神の言葉とはどんなものでしょうか。
スライド5: ネブカドネザルに生じるとされたこのメッセージには、注目に値する意義があったはずだと、普通のクリスチャンなら考えるはずです。では、どんな意義、あるいは目的があったのでしょうか。まず(ダニエル 4:17) …これは,至高者が人間の王国の支配者であり,ご自分の望む者にそれを与え,人のうち最も立場の低い者をさえその上に立てるということを,生ける者が知るためである…(ダニエル 4:28) …このすべては王ネブカドネザルに臨んだ…(ダニエル 4:34) …こうしてその月日の終わりに,わたしネブカドネザルが目を天に上げると,わたしの理解力はわたしに戻るようになった。それでわたしは至高者をほめたたえ,定めのない時に至るまで生きておられる方を賛美し,その栄光をたたえた。…わずかに引用したこの出来事だけでも、充分に意義のある「注目に値する」出来事です。それも当然で、そうだからこそ、神は、わざわざネブカドネザルに夢を見させ、驚愕させ、ダニエルにそれを解き明かさせるという手の込んだ方法によって、この一連の出来事を印象づけ、そしてこのイベントこそ、バビロニア帝国を最も特徴付ける出来事として、世界強国の興亡の順番を示した 7 章の獣の描写に用いているのです。(ダニエル 7:4) …第一のものは・・ついにその翼は抜き取られた。またそれは地から持ち上
スライド6: げられて,人間のように二つの足で立つようにされ,それに人間の心が与えられた…神によるこの一連の業が実際にネブカドネザルに成就した結果を「何も注目に値しない」と、はばかることなく言い切る神経はどこから来るのでしょうか。異邦人であった当のネブカドネザルでさえ、この出来事で「至高者をほめたたえ,定めのない時に至るまで生きておられる方を賛美し,その栄光をたたえた」にも関わらず、エホバの崇拝者を自認するするものが、取るに足りない 7 年間であったとして良いものでしょうか。ところで2520年後の1914年には「注目に値する出来事」が何か起きたのでしょうか。あるとすれば、7 つの時が満ちたとされる 1914 年 10 月より数ヶ月 [前]に第1次世界大戦が起きていますが、それが満ちた、その時には「その長い期間の終わりに注目に値する出来事は何も起きていません」とここでこの文章が使われるなら、事実を物語っています。つまり、「至高者が人間の王国の支配者である」ということを「生ける者」の圧倒的大多数は、それを知るようになっていません。なぜなら、知りようがないからです。わずかばかりの人々がそう「信じた」だけで、神の支配を始めているということが認められる注目に値する出来事は何一つ起きていません。さて次に②と③を一緒に考えます。ものみの塔は次のように問題定義を提出しています。
スライド7: 「諸国民の定められた時」が文字通りのエルサレム市だけに関係しているのか,それとも付加的な,もっと大きな事柄に関係しているのかを見極めるためには,霊感を受けて書かれた聖書が「エルサレム」にどんな意義を与えているかを確認することが不可欠になってきます。」-洞‐1 11841185 ページ踏みにじられる「エルサレム」とは何か「エルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられる」と言うことによって,イエスは地上の都市が最後には元通り神の恵みを受けることを示唆しておられたのでしょうか。そうではありません。地上のエルサレムは神の愛するみ子が殺害された後,その特別な立場を永久に失い,「生ける神の [ はるかに勝った ] 都市なる天のエルサレム」(天の神の王国)がそれに取って代わりました。」-塔 90 10/15 17‒18 ページ 9 節簡単に言えば、預言の最終的成就において「地上のエルサレム」は何ら関係ないという説明です。しかし地上のエルサレムが、定められた時に回復するという預言は聖書中に数多くあり、いわゆるバビロンから帰還した以降の預言の中にも多く見いだされます。「ものみの塔」もそれを認めており、書籍の中にこう記しています。
スライド8: 「聖書研究者たちは,神の預言者たちが古代イスラエルに語った回復に関する多くの預言についてよく知っていました。(エレミヤ 30:18; 31:8‐10。アモス 9:14,15。ローマ 11:25,26)彼らは 1932 年まで,その預言は特に生来のユダヤ人に当てはまると考えていました。」-告 10 章 141 ページここに引用されているローマ 11 章はこういう聖句です。(ローマ 11:25‐26) …諸国の人たちが入って来て [ その人たちの ] 数がそろうまで,感覚の鈍りがイスラエルに部分的に生じ,こうして全イスラエルが救われることです。…この聖句に関する記事として典型的な幾つかの例を引用すると例えば次の記事です。「イスラエル人は依然として神のみ前に特別の立場を占めている,とパウロが信じていたはずはありません。」-塔 85 1/15 5 ページ「なるほどパウロは,諸国の人たちがクリスチャン会衆へ入って来てその人たちの「数がそろう」まで,ユダヤ人は霊的「感覚の鈍り」を経験すると言いました。 しかしながら,ギリシャ語学者リチャード・レンスキによると,「まで」という語はここでは必ずしも後代の改宗を暗示してはいません。(使徒 7 章 17,18 節と,啓示 2 章 25 節の「まで」と「やがて」[ いずれも英語,until の訳 ]」の用法を比較してください。)実際にはパウロは,ユダヤ人の感覚の
スライド9: 「鈍り」は終わりに至るまで変わらないと言っているのです。」-塔 85 1/15 5‒6 ページ本当にパウロはそう言っているのでしょうか?まず、「まで」と言われていてもその後も何も変わらないという用法の例として挙げられている啓示2:25を実際に検証してみることにします。(啓示 2:25‐28) …それにしても,あなた方が持っているものを,わたしが行くまでしっかり守りなさい。ここだけを読んで考えると、確かにキリストが来られるまで、クリスチャンとして死守すべき事柄は、その後も変わることはないと考えられます。しかし、キリスト到来後も、何も変わらないのでしょうか。続くパウロの言葉はこうです。「そして,征服する者,わたしの行ないを終わりまで守り通す者には,わたしは諸国民に対する権威を与え,その者は鉄の杖で民を牧し,彼らは粘土の器のように打ち砕かれるであろう。それは,わたしが自分の父から受けたのと同様であり,わたしはその者に明けの星を与える。」「まで」の前と後で変わっていることは少なくありません。しかもその変化は尋常ではありません。まず、「征服」を完了しています。「諸国民に対する権威が」与えられます。「鉄の杖で民を牧
スライド10: する」ことが始まります。これらの表現から分かるのは、すでに彼らは肉の人間ではありません。霊者であり、しかも不滅不朽であり、王という立場であり、神と同じ領域に住む者です。「まで」の前と後でこれほどの変化を見る例は他にないと言えるほどの大変化です。これが、どうして、「何も変わらない」、「まで」の用法の例として挙げられているのか気が知れません。そもそも、まったく何も変わらないのであれば、「まで」という語を使う理由が全くありません。『「まで」という語は後代の改宗を暗示してはいません。』という学者の意見というものを引用していますが、仮に「まで」が必ずしもその後の「改宗」を暗示していないにしても、「まで」の後は、それまでと何らかの変化があるはずで、注目すべきは単なる1単語ではなく、前後を含めた、文脈、文意でなければ、意味を取り違うことになります。もし「まで」が必ずしもその後の変化、もしくは逆転を意味しないのであれば、ルカ 21 章の「諸国民の定められた時が終わった」後も「諸国民によってエルサレムが踏みにじられることは「変わらない」ことになります。(ルカ 21:24) …エルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです。どうでしょうか。ここの出て来る「まで」は踏みにじられることが「終わる」ことを暗示していますか。それとも「まで」という語が何かを「暗示」していますか。あるいは「まで」という語はここでは必ずしも後代の解放を暗示してはいないと言うべきですか。
スライド11: まあこの点で言えば、1914 年以前も以降も、今現在に至るまでエルサレムが踏みにじられていることは何も変わっていません。言い換えると、1914 年に「諸国民の定められた時」がすでに終了したのに「地上のエルサレム」が依然として踏みにじられている現実は、実に困った問題だったのです。解決法は 2 つしかありませんでした。現実に生じている事柄に基づいて、「諸国民の定められた時」はまだ終了してないということを認めて、撤回するか、地上のエルサレムは預言の成就とは何の関係もないことにするかどちらかです。ものみの塔は後者を選びました。しかも 1914 年から 9 年も経ってからこのことのゆゆしさに気付いたようです。それで、1923年に教理の変更が行われました。ですから、どうしても、「エルサレム」は地上のエルサレムあってはならなかったのです。私は何もへりくつは言っていません。「ものみの塔出版物」の論法、論拠するものを、そのまま「ものみの塔出版物」に当てはめて考えて見ようとしているだけです。さて、さきに引用した、ものみの塔 85 年のコメントですが、「イスラエル人は依然として神のみ前に特別の立場を占めている,とパウロが信じていたはずはありません」ということですが、このことをローマ 11 章の部分から検証してみたいと思います。まあ、殊更にここで検証と言わなくてもローマ11章全体を読みさえすれば、誰にでも一目瞭然と言えると思えるほど、明らかですが、一応ここでローマ11:19-24を取り上げます。パウロはこのことをオリーブの木、枝(アブラハムの胤)、接ぎ木という例えを用いて説明し
スライド12: ています。分かりやすくするために( )で語句を挿入して引用します。(AC)は Alien 異邦人からのクリスチャンです。(Y)はユダヤ人を指します。(ローマ 11:19‐24) ここであなた(AC)は言うでしょう,「わたし(AC)が接ぎ木されるために枝(Y)は折り取られたのだ」と。そのとおりです! 彼ら(Y)は信仰の欠如のゆえに折り取られ,一方あなた(AC)は信仰によって立っているのです。神が本来の枝(Y)を惜しまなかったのであれば,あなた(AC)を惜しまれることもないからです。それゆえ,神のご親切と厳しさとを見なさい。倒れた者たち(Y)に対しては厳しさがあります。一方あなた(AC)に対しては神のご親切があります。ただし,あなた(AC)がそのご親切のうちにとどまっていればのことです。そうでないと,あなた(AC)も切り落とされることになります。また彼ら(Y)も,信仰の欠如のうちにとどまっていなければ,接ぎ木されることになるのです。神は彼ら(Y)を再び接ぎ木することができるからです。というのは,あなた(AC)が本来野生のオリーブの木から切り取られ,自然に反して園のオリーブの木に接ぎ木されたのであれば,まして,本来それに属するこれらのもの(Y)は自らのオリーブの木に接ぎ木されるはずだからです。」先ず、注目しておきたのは、登場人物は 2 人「あなた」と「彼ら」です。つまり異邦人からのクリスチャン(厳密にはローマの会衆のクリスチャンですが、彼らは「異邦人クリスチャンの代表です)と肉のユダヤ人です。
スライド13: ここで、ユダヤ人だけを区別して語っています。特に別にしているわけですから、この時点でさえ依然としてユダヤ人は特別な存在でした。とりわけ、野生(本来のものではない)から接ぎ木されたのであれば、ユダヤ人は、なおのこと「本来それに属する」と述べて、依然として神にとってユダヤ人とそれ以外の人々との区別があるという認識を示しています。そしてこれを確証するものとして「[ 神の ] 選びについて言えば,彼らはその父祖たちの益のために愛されています。神の賜物と召しとは,[神]が悔やまれる事柄ではないからです」。(ローマ 11:28)と付け加えて、パウロにとってもユダヤ人が神にとって特別であることは、過去の話ではなく、現在もそうであるし、実際永遠不変とも受け取れる表現で述べています。これらを読んで、「イスラエル人は依然として神のみ前に特別の立場を占めている,とパウロが信じていたはずはありません」となぜ言えるのか理解に苦しむでしょう。「異邦人の時」は「地上のエルサレムで始まり、そしてそれは神の愛するみ子が殺害された後,その特別な立場を永久に失い天のエルサレムである神の王国がそれに取って代わりました。」という塔90/10/15の文章を前に引用しましたが、諸国民に踏みにじられ始めた時の「エルサレム」は地上のエルサレムで、踏みにじられることが終わるときに、回復するのは地上のエルサレムでないとすると 1 種の「だましのテクニック」のように思えます。いつの間にか、対象がすり替えられているわけですが、地上のエルサレム以外の何物でもなかったものが厳密にいつ「天の王国」に替わったのでしょうか。
スライド14: 天の王国の存在は踏みにじることが終わると同時に生じたということですから、それまでは「エルサレム」は地上のエルサレムでなければなりません。預言が成就するためには神の王国が立つまで、諸国民はとにかく何らかの「エルサレム」を踏みにじり続けなけていなければならないはずです。当然それまで、天にも地の別の所にも「エルサレム」は存在しませんから「諸国民」が踏みにじることのできるエルサレムは中東の地上のエルサレムしかありません。王国がまだ存在する前からエルサレムは地上のエルサレムではない、としたら「踏みにじるべき対象が消滅してしまうからです。ですから、実際の歴史事実がそうであったように、それまで、聖書を信じる人々は「地上のエルサレム」が回復されるという神の約束を2520年間も待ち望んで来たし、その理解で正しく、その期待は当然で、真の信仰の意味するところです。そしてようやく、その信頼してきた約束が実現したとたん、はい残念でした。地上のエルサレムが踏みにじられることが終わることは永久にありません。そんな答えで本当に良いんでしょうか。それがそもそもの目的であったなら、地の「エルサレム」についての聖書中の数多くの預言はどれも、初めっから成就させるつもりはなかったということになります。あるいは、1 世紀に少なからぬユダヤ人がキリストを否定しなかったなら、それらの預言は地上のエルサレムに成就することになったのでしょうか。
スライド15: 「地上のエルサレムは神の愛するみ子が殺害された後,その特別な立場を永久に失」ったゆえに、地上のエルサレムはもはや神にとって何ら特別なものではなくなったという説明が、真実であれば、西暦 70 年の「エルサレムが野営を張った軍隊に囲まれる」(ルカ 21:20)ことがどうして神から見て「嫌悪すべきもの」と映ったのでしょうか。確かにイエスはエルサレムに関して否定的な言葉を残しています。(ルカ 13:34‐35) …「エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,自分に遣わされた人々を石打ちにする者よ―めんどりが一かえりのひなをその翼の下に集めるように,わたしは幾たびあなたの子供たちを集めたいと思ったことでしょう。それなのに,あなた方は [ それを ]望みませんでした。35 見よ,あなた方の家はあなた方のもとに見捨てられています」…しかし、地上の「エルサレム」が永久に神から見捨てられているとは、どこにも述べられていません。これがもしそう言う意味だとしたら、どうしてキリストは、エルサレムにローマ軍が立つこと、神殿を破壊することを、『嫌悪すべきもの」と表現されたのでしょうか。彼らによって「神殿が汚される」(神聖なものであるべきもの)という認識が依然働いていた証拠です。その出来事についてわざわざ「エルサレム」を「踏みにじる」行為と表現されたのは、エルサレムは依然神にとって特別なものであり、犯すべきではない神聖な場所とされていたゆえに出て来る表現で、すでに永久に見捨てられたところなら、エルサレムに殊更に言及する理
スライド16: 由は何もありません。イザヤ書やエレミヤ書でエホバはイスラエルに対してご自分を「夫たる所有者」と言い表しています。ものみの塔の公式見解は「イスラエルは永久に捨てられた」ということですから、この比喩で言うと、法的に離婚し、全く他人になっていると言うことです。従ってイスラエルは神にとって諸国民のひとつ以外の何物でもない。ということになります。ではそうした異邦諸国の一つ(地上のイスラエル)が他の多くの諸国民に踏みにじられることがあったとしてもなかったとしても、いつまで続いたとしても、ものみの塔の述べる通り、それは聖書預言の成就には何の関わりもないことになります。では、そうであるとすると、神にとっては何の関わりもないものを諸国民が踏みにじるのを許すも許さないもなく、その「諸国民」のための「定められた時」を用もなくわざわざ設け、その「時が満ちるまで」続くということを定め、それをキリストが語り、聖書に記され、今日まで保たれるといった全ては何一つ、まったく意味はない。ということになります。単にエルサレムがバビロンによって踏みにじられてから王国が建てられるまでの期間が定められたのなら、それが満ちて王国が天に樹立すれば良いワケで、その間に、諸国民が地上のエルサレムに対して何をしていようと一切関係ないのですから。従って 1914 年王国樹立説の論拠とされる全ての項目は、非聖書的と言うより、反聖書的と言わねばないでしょう。