登録者:Ching of chings

18 「到来」なのか「臨在」なのか.pdf

2010-02-05 01:31:29
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聖書 エホバの証人

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スライド1: 「到来」なのか「臨在」なのか*** 洞‐2 1188 ページ 臨在,共にいること,存在すること ***「臨在」と訳されている元のギリシャ語はパルーシアで,これはパラ(傍らに)とウーシア(いること ; 「いる」を意味するエイミから派生)から成る語です。したがって,パルーシアは,字義通りには「傍らにいること」,すなわち「臨在」を意味します。・・  臨在には当然,イエスの臨在する場所への到着という意味合いが含まれていますが,パルーシアを「到来」と訳すなら,到着だけに強調が置かれ,到着の後に続く臨在が不明瞭になります。イエスのパルーシアが,単に瞬間的に到来し,その後直ちに出発することではなく,むしろある期間を包含する臨在であるということは,マタイ 24 章 37‐39 節やルカ 17 章26‐30 節に記録されているイエスの言葉からも分かります。キリストの王としての支配が、1914 年に開始したと公言してきたが、実際に起きたのは第1 次世界大戦とそれに付随する幾らかのことだけで、キリストの支配の行使やパルーシアそのものは地上の人間誰にも、それを確認できなかったことの説明として、パルーシアは「目に見えない」こともあり得るし、この場合はそうであった。というのが幾度となく繰り返されてきた説明である。しかし、それ以前から、ずーと天に臨在し(そこにいる)、そして 1914 年に臨在を開始したということなので、西暦 33 年以来天に臨在し、そしてついに 1914 年に同じ場所で臨在

スライド2: を開始したという教理なのですが、パルーシアを他の聖書翻訳のように、この出来事を「到来」と訳されると、「どこに?  どこから?」という発想が出てきます。つまり、(天を)出発、移動、(地に)到着という [ 場所の違い ] の概念が当然生まれるので、そのイメージは何としても払拭しないと、1914 年開始説が説明しにくくなる。あるいは成り立たなくなる危機感を覚えたのは当然であろうと思われる。しかるに、このパルーシア自体が目に見えるか見えないかは本質的にさほど重要なことではない。(聖句にも「見る」のは人の子の「しるし」であるとされている)なぜならば、この一連の記述において、重要なただ一つの論点は「いつなのか」という点だからである。(マタイ 24:3) …そのようなことはいつあるのでしょうか…そして、「いつ」が問題であるなら、それはいつから、そこに「いる」のかではなく、いつ「来る」かということこそが最大の関心事なのです。だからこそイエスは終始一貫、「来る」ことを強調されています。(マタイ 24:42) …それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなた方は,自分たちの主がどの日に来る [ ἔρχεται ( エルケータイ )] かを知らないからです。(マタイ 24:44) …このゆえに,あなた方も用意のできていることを示しなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来る [ ἔρχεται  ( エルケータイ )] からです。

スライド3: (マタイ 24:46) …主人が到着して [ ἐλθὼν ( エルソーン ) 来る時 ],そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです…(マタイ 24:50) …主人は,彼の予期していない日,彼の知らない時刻に来て [ ἥξει( エイコー )](マタイ 25:19) …その奴隷たちの主人が来て [ ἔρχεται ( エルケータイ )],彼らとの勘定を清算しました…(マタイ 25:31) …人の子がその栄光のうちに到来し [ ἔλθῃ ( エルケー )],またすべてのみ使いが彼と共に [ 到来する ] と…「自分たちの主がどの日に臨在するかを知らないからです」とか、「思わぬ時刻に人の子は臨在して」とか、「夜の盗人のように臨在して」とか、「奴隷たちの主人が臨在して」などとも述べておられません。不意を突かれるのは「いた」時ではなく「来た」時です。イエスはご自分の述べていることの本来の目的をちゃんと承知しておられたので、自分がいつからか(パルーシア )そこにいるかを誰も知らないなどと意味不明な表現を用いて要点をはぐらかすようなことはありませんでした。要点は「来るのは、いつなのか」ということです。これほどに明確にイエスはご自分の到来について終始語っておられるにも関わらず、「到着」

スライド4: 「到来」ではなく、「いる」ことだということに執着する説明を分解して解説してみたいと思いますが、涙ぐましいまでに滑稽な解説が続きます。「臨在には当然,イエスの臨在する場所への到着という意味合いが含まれていますが,・・」いきなり忽然(こつぜん)現れるわけでなないので、当然臨在するためには先ず到来しないとならないわけですが、「臨在は」「そばにいる」という意味で、パルーシア自体に「到着」という意味合いが含まれているという説明は正確ではないでしょう。パルーシアを「到来」と訳すなら,到着だけに強調が置かれ,到着の後に続く臨在が不明瞭になります。到来と訳すと本当に到着「だけ」が強調され、その後そこに存在するということが「不明瞭」になるでしょうか?その到来は明らかに目的があって、しかも何千年も待ち続けている、待望久しい、到来の約束が実現するという話です。しかも、全世界に多大の影響を与える、人の絶滅か永遠の命かが関わっている話です。時間的規模も地域的規模も究極的価値観もすべてこれ以上はない最大級の事柄をもたらす到来です。この一連の文脈を聖書から読む人がそこに「臨在」ではなく「到来」と訳されていたら、来たには来たが、その後は、どうなるんだかよく分からないと本当に思う人がいるでしょうか「イエスのパルーシアが,単に瞬間的に到来し,その後直ちに出発することではなく,むしろ

スライド5: ある期間を包含する臨在であるということは,・・・」仮にこれが聖書の一節でもなく、何の文脈もない、ただ単に「あるひとが、○○にやって来ました」という一文だけ読んだ時、その後にどこかへ行ったとか死んだとか、何かしらの記述がないかぎり、読んだ人の頭の中には、その人はやって来たそこに存在(臨在)し続けます。そう受け止めるのが普通であり正常な神経です。誰かが来たと書く度にあるいは話す度に、それは瞬間的な到来ではなく、直ちにどこかへ去っていったりいないでしばらくはそこにいます。と逐一付け加えないと、話が不明瞭になると、もし本気で思っているとすれば、それは、当人はその自覚がないかもしれませんが、一種の強迫観念でしょう。強迫性障害強迫観念(きょうはくかんねん)とは、本人の意志と無関係に頭に浮かぶ、不快感や不安感を生じさせる観念を指す。強迫性障害の患者の場合は、普通の人が大して気にせずにいられるものが強く感じられたり長く続くために強い苦痛を感じている。単語や数字のようにそれ自体にはあまり意味の無いものが執拗に浮かぶ場合もある。百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)