登録者:Ching of chings

17 「10」という数字について.pdf

2010-02-05 01:30:13
アクセス数:243
タグ: 聖書 エホバの証人 10 地的完全数 全体
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■説明

「7」という数字が「全体」を意味するという聖書記述はありますが、「10」という数字に特別な意味があることを示す聖書記述は存在しません。

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■スライド内のテキスト

スライド1: 「10」という数字について聖書中で数字はある特定の意味づけがあることはよく知られています。例えば3は確かに強調する時によく出て来ます。同様に7は神の創造の業を含む、働きや休みのサイクルなどに用いられ、12は組織的なものに用いられています。では逆も真かというとそんなことはありません。3という数に関連した者は常に強調を意味するということはもちろんありません。よく7は霊的完全数と言われますが、常にそれは霊的な数かというとそんなことはありません。サタンの関連したもの中にも7はよくでて来ます。6という数字も象徴的に使われることがしばしばあります。6は7と比較して霊的不完全数などと言われたりします。さて10という数字についてですが、地的完全数とか、全体を象徴する数字と言われますが、こうした表現にどんな聖書的根教があるか、あなたは挙げることができますか。

スライド2: 聖書解釈的根拠ではありません。聖書そのものが、そのことを明確に示していると言える聖句です。調べて見ましたが、そんな聖句はどこにもありませんでした。特に実際の数がいくつであろうとも、つまり9でも13でも25でも 100 でも378でも、とにかく全部、全体を言い表す時に10という数字が聖書中に用いられている箇所は一カ所もありません。10という数字が 10 以外のものを指して表現されている所もありません。7つで全部のものは7と表現されています。全体、全部を意味する必要がある時はそれと同様の意味の言葉が使われています。もちろん言語には慣用表現というものはあります。日本語でも十把一絡げとか十人十色とか、言う場合、そもそも数を問題にしてはいません。あるいは近い数字の場合、四捨五入して表現するのも、どの時代のどの言語の民族でも同じです。例えば10人程の人が、という場合、恐らく7,8人から十数人の人を指してそう表現するかも知れません。

スライド3: いずれにしても、何であれ全部、全体を表す時に「10」です。とされたのでは、計り知れない混乱(ヘブライ語でバベル)が生じます。無秩序の神ではない、聖書の著者が、そんないい加減なことを常套手段とするのだろうかと思いましたが、幸いなことに、そうした例は聖書中に一つたりとも存在しませんでした。実数が10でないのに、「10」という数字で表現されている。という主張の聖書的根拠として、「洞察」の本にまとめられている「数,数字」-( 洞‐1 572p) の項目の中の「十」という部分を検証して見ることにしました。*** 洞‐1 574 ページ 数,数字 ***「十の言葉」は律法契約の基本法を構成し,600 ほどの他の律法は単にそれらを敷えんし,明瞭にし,その適用を説明したものでした。」という説明の下に出エジプト記34:28が参照されていました。その聖句はこういうものです。(出エジプト記 34:28) …そして [神]は,契約の言葉,すなわち十の言葉を書き板に記して

スライド4: ゆかれた。これはつまり「十戒」は「600程の律法」からなるものを簡潔にまとめたものだったので、10 はその全体を表しているという説明です。その通りです。それ以外の何物でもなく、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。今風に言えば「まんま」じゃんだからどうなんでしょう。聖句は600を10と表記しているのではありません。律法の数は約600、そして、「十戒」はぴったり10です。10以外のものが10と表現されているわけではありません。そして極めつけが、その後に続くこれです。そして、10イコール完全数という教理の聖書的根拠とされているのはこれだけです。「イエスはご自分が話された幾つかの例えの中で,何かの全体もしくは数のそろった状態を示すのに 10 という数を使われました。―マタ 25:1; ルカ 15:8; 19:13,16,17。」

スライド5: ここで挙げられている聖句を全部引用します。(マタイ 25:1) …「その時,天の王国は,自分のともしびを持って花婿を迎えに出た十人の処女のようになります。(ルカ 15:8) …「また,十枚のドラクマ硬貨を持っていて,一枚のドラクマ硬貨をなくした場合に,ともしびをともして家を掃き,それを見つけるまで注意深く捜さない女がいるでしょうか。(ルカ 19:13) …彼は自分の十人の奴隷を呼んで,それに十ミナを与え,『わたしが来るまで商売をしなさい』と言いました。(ルカ 19:15‐17) そこで,最初の者が出て来て言いました,『主よ,あなたの一ミナは十ミナをもうけました』。それで彼は言いました,『よくやった,善良な奴隷よ! あなたは非常に小さな事において忠実であることを示したから,十の都市に対する権威を持ちなさい』。さて、この中で、ひとつでも10でないものを10と表現しているところがありますか。これらはすべて「たとえ話」です。実体を分かりやすく理解させるための創作物語です。

スライド6: 「例えばここに10人の奴隷がいるとします」「仮に10万円もうけたとします」というお話です。「10 人の処女」の実数は 10 人ではなく別の数ですか?登場人物も、その人数も特性も、すべて、お話を創作した人の設定によるのであり、話し手が 10 人と決めたのですから、それ以外のなにものでもありません。その他の例え話もまったく同様です。別に「全体もしくは数のそろった状態を示」そうとしたという明確な意図など、少しも聖書に記されていませんし、そもそも何もそんな必要ありません。敢えて言うなら、ここで出て来る「10」は「数の揃った状態」を示そうとしたと言うより、これ以上ないと言うほど極めてシンプルな数字を思いつくままに用いて「10」という数などにに気を取られることなくその話の要点そのものを際だたせて明記させるために選ばれた「10」という数でしょう。ともかく、この全てにおいて、実数が10ではないものを「10」と表記していることはありません。そして、繰り返しになりますが、もちろんどんな場合でも、確かめようのないものについては、何も判断できませんが、聖書を読んで確認できるものに限って言えば、「10」という表現は

スライド7: 物事の全体をあらわすので、聖書に「10」と書いてあっても文字通り「10」でなければならないことは [ ない ]。という主張には、何ら聖書的根拠はないと断言できます。この教理がいつ頃誕生したのかわかりませんが、推察するとおそらく、ダニエルの 4 番目の獣や、啓示の野獣にある 10 本の角の記述と、その現代の実体として説明している、「英米世界強国」や「国連」など、どこをどう探しても、10という数と合致するものは何一つ見つからなかったので、それらをごまかすために例によって苦肉の策として、産声を上げることになったのかもしれません。